20代OLの瀬戸際

風の前の塵に同じ

ゼロ年代ライトノベルの回想録:②キノの旅再び、イリヤの空

2000年~2005年頃のラノベの思い出を振り返るシリーズ第2弾です。第1弾は↓の通り。

 

キノの旅(再)

またキノ旅です!前回の記事を書いている間に迸った懐かしさにドライブされ、早速2巻まで読み返したのでその感想をば。

何よりも衝撃だったのは、10年の間隔が空いた再読なのに、途切れ途切れでも細部を覚えていたこと。

  • 「これからの未来を担う子供達に、どういった教育を施すかを決められるなんて。ああ、楽しかった……」
  • 「非道いなあ。こんな非道いことをするのはいったい誰?」
  • 「正しくないよ。でも、死にたくはなかったんだよ」

例えば上記のセリフ(それぞれ別々の話に登場する)とか。

  • 「あと一歩の公募落選をバネに」 イライザ・ブラウ 六十四歳・女性・主婦
  • 『メッセージが、キャンバスの上で苦しみながら息づいている。全国民必見の画集!』
  • 『重力は四十五歳で窓を割る』

更に上記のような一見何のことかわからないおふざけ描写箇所とか。

その箇所を読んだ瞬間に、あるいは読む前から、あーあったなこれあったあった、と違和感が挟まれることなく即座に当時の自分とリンクする感覚があった。

昔読んだ本を再読するときには多かれ少なかれこうした体験はあるものだけれど、こんな話だったっか…?と自分の記憶力を怪しみながらも新しい気持ちで楽しみながら先を追うことだって結構ある。私は記憶力があまり良い方ではないので特にだ。

が、本作についてはよほど強い思い入れを持って読んでいたらしい、本の中のエピソードを半ば自分の記憶と混濁してるようなところがある。感覚の説明が難しいが、当時の自分が物語に没入して明確な脳内映像を描いており、再読した際にも全く同じ映像イメージが想起されるため、過去に自分が観客として本の中の場面に居合わせていたような気になった。少なくとも、脳の中では私はそれを臨場感を持って体験したことになっている。 

 

逆に、少しでも存在を忘れていた登場人物がいると、まるで中学校時代の仲の良い友人を忘れてしまっていたかのような罪悪感や悲しさにつきまとわれる。実際に、「大人の国」は1p読んですぐどんな話だったかを結末まで走馬灯のように映像で思い出したのだが、これほど大事な話をその瞬間まで何故忘れてしまっていたのか、主人公の少女になじられたような気がしてちょっと目が潤んだ。そんなことある?と冷静な自分が思うのだが、でも身体が反応してしまうものは仕方がない。

これはやや行き過ぎた例かもしれないが、大人が子どもに本を読ませよう読ませようとするのは人生のセーブポイントを作らせようとする試みなのかもしれない。当時の自分を思い出して、年をとった自分と何が変わっていて何が変わっていないのかを思い起こさせるためのスイッチ。別にそんなものがなかろうが人は生まれて死んでいくのだが、雨のようにしてほとんどの物事を流れ忘れてしまう中でたまには後ろの光る目印とその下で小さく手を振る物語の人物たちのことを振り返ってみるのも、そう悪くない体験だと思う。

 

そんなわけで当初疑問だった、大人が初めて今読むとしたらどうなんだ?という点については、個人的な思い出補正が大きすぎるのでわかりません!ヘイ!が、少なくとも子供騙しだなあとは思わなかったので、あとは文体の好みとかそういう話なのではないか。40代とか60代になって読み返した時にどう感じるかはわからないけれど。

 

イリヤの空、UFOの夏(2001年~2003年、全4巻)

 「おっくれってるぅーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」

やっと完結してる作品の紹介です!全4巻です!

ラノベの傑作として名前が挙げられることが多い作品の一つです。そもそも、中学生時代に2chかなんかで殿堂入りラノベとして挙げられているのを見て興味を持ったという発端だった気がする。アニメ化もしてました、見たことないけど。

そして先ほどの再読の話でいうと、こちらは初めて4巻全部読んで以降、一度も通しで再読していない。というより、できない。あまりに3巻以降の展開がつらく、心がぐさぐさと刺されて抉られるように痛かったという記憶が深く刻まれているので2巻まで読んで止める、というのをひたすら繰り返していた。

 

あらすじはというと、中学二年の主人公・浅羽が夏休み最後の夜に学校のプールに忍び込んだ時に、同年代らしき見知らぬ少女・伊里野加奈(イリヤ)と出会うことから物語が始まります。この時点でイリヤが色々普通らしからぬ事情を背負っていそうだということが提示されており、具体的には、怪しげな錠剤がたくさん詰まった瓶や、イリヤの手首に埋め込まれている金属球らしきものを浅羽は目撃しています。そして実際彼女は普通ではなく、地球に侵略を仕掛けている宇宙人と闘うために育てられた兵士であることが途中で明かされることになります。

 

異世界人だか宇宙人だかの攻撃を受けていて、それを主人公の近くに現れた謎の存在が防ごうとする、という点では前回挙げたブギ―ポップ(またはかえるくん)と似ています。が、本作の場合は、その浅羽とイリヤとの交流をかなり丁寧に描写している点や、イリヤが最初から望んで宇宙人と戦闘しているわけではないという点、イリヤは最後に戦闘から戻ってこない点(浅羽にとっての救いがない)などなど、多数の違いがあるので同列の物語としては扱いません。

むしろ、「世界の中心で、愛を叫ぶ」のような難病ものとして見た方が早い。プールでの接近遭遇の後、イリヤは浅羽のクラスに転校してきて、慣れないながらに学校生活を送る様子が描かれます。が、その裏でイリヤは戦闘可能な身体を維持するために薬漬けとなっていて、飲まないと鼻血を出すし、物語後半では吐血もし、髪も白くなってしまう。浅羽はイリヤが戦闘に出なくてはならない現実を認めることができずに二人での逃避行を図るが、結局逃げきることはできずにイリヤは空へと「帰る」ことになる。

 

最後に別離を迎える物語の必然として、二人が一緒にいる間はひたすらきらきらと楽しい世界が描かれるのですが、この2巻まで(より正確には3巻第一話まで)の青春っぷりが「あったらいいな」の心のツボをぐりぐり押してくるんですよね。

めちゃくちゃ気持ちいいぞ、と誰かが言っていた。

だから、自分もやろうと決めた。

山ごもりからの帰り道、学校のプールに忍び込んで泳いでやろうと浅羽直之は思った。

「お前よくそんなヤボが言えるな。 いいか、裏山の秘密基地だぞ。謎の渦巻く園原基地をひと夏かけて監視すんだぞ。 近くの畑にスイカ盗みに行ったり盛ってるアベックの車に爆竹投げたり野生のタヌキを餌付けしたりとイベントだって目白押しなんだぞ。俺も混ぜてほしいくらいだったよ」

腰まである泥水を跳ね飛ばし、気合と泣き声ともつかない叫び声を上げて夕子は水前寺に突っかかっていく。水前寺が真っ向受けて立つ、跳躍する、怪鳥の如き裂帛の気合。

「食らえ胡蝶蹴りっ!!ほあちょーーーーーーっ!!」

夏の飛び蹴り男が、夕暮れの空を舞う。

マイム・マイムは水源を見つけた砂漠の民の喜びの舞踏だ、と水前寺は言った。

UFOと踊る。

草の海を渡る風が静かな音楽になる。

ネットの海を回遊していくつかばらばらに好きな箇所を引き抜いてきました。わかるだろうか、この非現実的なのだがしかしノスタルジックに素敵だと思えるラインを攻める文章。

特に浅羽の所属する部活・新聞部の部長である水前寺という男がいかにもアニメっぽいというか、エキセントリックなキャラ付けなのだが(100mを11秒で走り進路希望調査では「CIA」と書く男。上記引用「ほあちょー」で跳んでる男も水前寺である)、こんな奴いねーよで済まされるのでなく、こんな奴が自分の中学にもいたら楽しかったろうなあ、と思わせるようなキャラなんですね。この辺の作者のバランス感覚がすごい。

 

そこから一転しての逃避行及びその失敗に至るまでのリアルなエグみのある描写、浅羽に突きつけられる無力感、展開の突き放しっぷりもまた見事なのだが、見事すぎて私のように心が流血してトラウマになった読者も少なからずいるのではないかと思う。この記事を書くために3巻4巻のあらすじを探して読んでまた暗い気分になってしまった…が、そのまま何事もなくイリヤと一緒に成長していくハッピーストーリーであればここまで強く印象に刻まれることもなかっただろう。

ひとり残らず死ぬことは、ひとり残らず助かることと大して違わない。

本当の悲劇とは、誰かひとりを残して他の全員が死ぬことであり、他の全員が助かったのに誰かひとりだけが死ぬことだ。

悪役の不在は、正義の味方の不在より千倍も万倍も悲しかった。

どんなに終わらないでほしいと願っても、時は流れて夏は終わる。それがどれだけ記憶に残るものであってもだ。

 

様々な理由により今でも再読できない本というのは複数あるけれど(「子供たち怒る怒る怒る」とか)、再読できないけれど誰かには薦めたい本というのは本作くらいかもしれない。

丁度季節は夏なので、蝉の音や入道雲の下で、夏休みのお供にどうぞ。

 

全体的な余談。

何を以て「ライトノベル」と括られるのかは今でもよくわからない。

実際確固たる一般的な定義はなく、色々な意見を総合していくと、漫画やアニメっぽいキャラクターが中心となり展開する小説、くらいの意味合いだと思うのだが、ここでいう「漫画やアニメっぽい」とはつまりどういうことなんだろうか。

舞台が現実的ではないということ?キャラクターが記号的で立体感を持たないということか?

例えば「新世界より」(貴志祐介)なんかはとてもラノベっぽいというかラノベとして発売されていても全く違和感がなさそう(実際に漫画化・アニメ化されている)なのだが、世間的にはそう受け取られていない気がする。出版しているのが講談社だからだろうか。

また、最近読んだ恩田陸の「チョコレートコスモス」及び「蜜蜂と遠雷」も、やはり漫画化アニメ化しても違和感がなくラノベっぽい小説だなと感じたのだが、やっぱりこちらもそう認識して手に取っている人はいないだろう。

そうすると表紙が漫画/アニメ絵かどうかだけが問題となるのだろうか(現在のラノベだったらタイトルも「それらしい」かどうかに影響するのだろうけど)。たしかに、私は表紙絵を理由にキノ旅を読み始めているから絵は重要だったと思うけれど、そのようなoutfitの問題で敬遠されたり作品として下に見られるのだとしたらなんだか勿体ないような気もする。

 

でもやっぱりじゃあイリヤやキノ旅が普通の、一般小説と同様のカバーだったら一般小説と同様に読まれたのか?というとそうではないなと思う直観があるので、ラノベと一般小説の境界線はそこじゃないんだろうな。何だろう。特に結論はありません。

新世界より(上) (講談社文庫)

新世界より(上) (講談社文庫)

貴志祐介作品面白いよね