20代OLの瀬戸際

風の前の塵に同じ

翻訳の世界/世界を翻訳せよ

色々あって休職していた間、やっていたことの一つが翻訳についての勉強です。

翻訳は奥深く学びがありそして楽しい!「え、これまで和訳の宿題を楽しいと思ったことなんてないけどな」と首をかしげるそこのあなたに翻訳の魅力をお伝えしたいと思います。

 

翻訳と英文和訳は違う!

翻訳に関する最も一般的な誤解はおそらく、「翻訳とは、英語を辞書で調べた日本語に置き換える作業を指す」というものです。例えば、He is a student.と書いてあれば、当然「彼は学生です」と訳すのが正解、と考える人は多いのではないでしょうか。

しかしそれはあくまで「英文和訳」の正解であって、「翻訳」ではありません。

翻訳はもっと自由でイマジネーションの羽ばたく領域です。どういうことか。翻訳の使命とは、「原文の魂を日本語で表すこと」です。自分が原文を読んで頭に浮かんだ像を、そっくりそのまま読者の頭の中にも浮かべるための日本語を苦心することが翻訳だといえます。

 

例を出します。下の英文は私のとても好きな小説「月と六ペンス(サマセット・モーム)」の書き出し部分なのですが、あなただったらどんな日本語に訳しますか?

I confess that when first I made acquaintance with Charles Strickland I never for a moment discerned that there was in him anything out of the ordinary. Yet now few will be found to deny his greatness.

(The Moon and Sixpence / W. Smerset Maugham) 

 

英文和訳であれば、例えば以下のように訳すことが「正解」となるでしょう。

私は、初めてチャールズ・ストリックランドと出会った時に、彼に普通さ以外の何かがあるとは一瞬たりとも気付かなかったことを認める。しかし今では、彼の偉大さを否定する人は少数しか見つからないだろう。

たしかに日本語の文章としては成り立っており、原文のどの単語をどう訳したかの対応関係は非常にわかりやすいので、これがテスト問題であればとても採点をしやすいはずです。でもこれ、なんだか絶妙にわかるようでわからない日本語になってません?

なんだか言い回しが不自然というか、読むのに頭を使う感じがしますよね。そこをプロの翻訳家はどう訳しているのか?という例を次に示すので、いや自分だったらもう少し上記よりもこなれた日本語訳をできる気がするぞという方はこの先を読む前に試しに一度訳してみてください。

 

心の準備は良いですか?大丈夫ですか?

では光文社新訳文庫の土谷政雄さんの訳を見てみましょう。 

いまでは、チャールズ・ストリックランドの偉大さを否定する人などまずいない。だが、白状すると、私はストリックランドと初めて出会ったとき、この男にどこか普通人と違うところがあるとは少しも思わなかった。

まず文の順番から違う!!!!!!

そんなのアリなの!?という感じですが、でもこの日本語を読んで何かもやっとするところとか変に引っかかるところがあるかというと、ないんですよね。原文を眺めながら、ここどう訳せば上手い日本語になるんだろう…と悩んだ部分がぱっと明るく全て解決されているというか。テストだったらバツになるかもしれませんが、読みよい日本語であることには間違いありません。

文の順番が変わってしまっている点を良しとするかはたぶん翻訳家の中でも人により賛否が二分されるんだと思いますが、おそらく日本語としての文章構造の並びの自然さを追求した結果として上記の通りになったのだろうと思料します。いきなりストリックランドという人物名を出してぐいっと読者の興味を引っ張ろうとしていること、そして彼は時代の途中で何らかの要因で急に有名になった人物だということを示唆していること、そのような文章上の重要要素が損なわれているわけではないので、原文を捻じ曲げているとまでは言えないのかな、と。

 

ちなみに他の翻訳家による日本語訳がネットで見つかったので持ってきました。龍口直太郎さんの訳です。

はじめてチャールズ・ストリックランドと近づきになったとき、私は正直なところ、まさかこの人物に人並みはずれたところがあろうなどとは夢にも思わなかった。ところが今では、彼が偉大な画家であることを否定するものがほとんどないといっていい。

どちらかといえばこちらの方がより原文に近い訳になっていますね。

こちらと土谷訳のどちらが良いか、という問いは文体の好みや翻訳作法の信条等により各々答えが分かれるかと思います。が、両方全く同じ英文を基にしているのに翻訳結果の日本語はまるで異なっている、そしてそれぞれがそれぞれに読みやすいということはお分かりいただけるのではと思います。

要は、

①読者が日本語として違和感を感じず自然に読める文となっているか

②読者がちゃんと原文読者と同じように映像を脳裏に浮かべたり感情を動かされたりするか

という2点が非常に重要で、逆に言えばこちらの2点さえ守れていればあとは翻訳家の自由演技となります。土谷訳も龍口訳もどちらも翻訳の可能性の一つであり、この二つだけが翻訳というわけでもない。翻訳にただ一つの「正解」はないのです。

 

翻訳家は二つの世界を結ぶ者

いきなりシャーマンキングみたいなことを言い出しましたが、原文の世界と読者の世界を繋ぐ役割を託されているのが翻訳家です。時として、言葉だけではなく文化を翻訳することが求められます。

有名な例がドナルド・キーンによる「斜陽(太宰治)」の翻訳。元の日本語では「白足袋」となっているところを、"white gloves(白い手袋)"と訳したことで知られています。何で足袋が手袋になったかというと、これはキーン氏がとち狂っていたわけではなく、"white socks(白足袋)"の意味合いが日本と欧米で異なっていたからなんですね。

舞台となっている戦後日本では、男性は黒足袋を履くのが一般的で、白足袋は正装の時に履くアイテムでした。なので、「白足袋を履く往診医」という登場人物は、しっかりとした、何か律儀な人物だなというイメージを読者に抱かせたわけです。一方で欧米で白い靴下を履くのはいたって日常的。white socksやwhite Japanese socksでは太宰の意図したイメージが読者に伝わらない、と考え、white glovesと訳すことで同じ効果を狙ったわけです。手袋に足袋をオーバーソウルさせたわけですね。全然上手いこと言えません。

 

こういう例もあることを考えると、今後Google翻訳がめちゃくちゃに発達したり、英語をたしなむboys&girlsが増えたとしても、翻訳という仕事自体はなくならないんじゃないかなと思います。

翻訳家というのは、ただ表面上の言葉を替えているだけではなく、第一読者として原文の背景にある文化を理解し、解釈しているわけです。聖書やらシェイクスピアの引用が突然出てきたとしても、それをそうだとわかるように訳し、必要に応じて言葉を補ったり註を付けたりする、そうした役割も一切不要であると言い切れる人はそう多くないんじゃないかと。

そしてたとえそのような文化の違いがなく、現代日本を舞台にした外国語小説であったとしても、上の月と六ペンスの例のように、「なんとなくでは済まない、原文の明確な理解とその表現」という厄介な作業を翻訳家がまず引き受けているわけで、ある意味で翻訳文というものは常に原文を直接読むよりも一段わかりやすいものとなっていなくてはならないはずです。…実際には逆の例の方が多いんじゃないかとも思わなくもないですが(主に学術書。絶対これ訳者も原文理解してないだろしてたらこうはならないだろ、とわかるようで全くわからん日本語を前に半泣きになることが何度あったことか)。

 

繰り返しになりますが、実際には翻訳者の中でも色々な流派があり、元の原文が一義に思い浮かぶような翻訳(英文和訳寄り)の方が翻訳文として優れているという考え方もあります。

個人的には、翻訳者が第一読者としての責任を持って解釈することから逃げる言い訳にもなってしまいかねないなと思ってしまうので賛同しません(少なくとも今のところは)。光文社の新訳文庫シリーズがどれも異常に読みやすいのは、そうした流派の人から訳しすぎだと責められるリスクを被ってめちゃくちゃに噛み砕いた解釈を日本語に直してくれているからこそと思うので、本当に有り難い…カラマーゾフとかも原文読めないからわからないけれどロシア語初学者がびっくりするような跳躍を以てして原文の魂を読みよい日本語にしてくれているんだろうな、、

 

皆さんももし何かこれまで読んだ本の中で、翻訳ものなのに読みやすかったな面白かったな、という本があればぜひ原本も買って突き合わせてみてください。翻訳家の方の創意工夫に感嘆することしきりだと思います。

 

*これは日本の小説の外国語版にもいえることで、たとえば村上春樹の小説の英語版って流石に一流の翻訳家が担当しているのか、めちゃくちゃ読みやすいんですよ。そもそも原文があまりこねくり回した日本語ではないというのもあるんですけど。例えばノルウェイの森冒頭の「やれやれ、またドイツか、と僕は思った。」は”So ‐ Germany again.”になるんだ!とかの発見が沢山あって楽しいです。

 

本の紹介

とまあ色々知ってる風に書いてしまいましたが、何分私自身は翻訳家ではないので、全ては読んだ本からの受け売りです。以下、読んだ本の中で面白かったもの。翻訳家になる気はないが翻訳そのものはなかなか面白い営みだなと感じる方にもぜひ読んでみてほしい。

 

翻訳の秘密―翻訳小説を「書く」ために

翻訳の秘密―翻訳小説を「書く」ために

 「さゆり」「停電の夜に」等を訳されている小川さんの本。前半が英文例→訳例の繰り返しになっているので、翻訳と英文和訳との違いをよく理解できます。後半の「さゆり」(※アーサー・ゴールデンが日本の花街について描いた英語小説)の翻訳秘話では専門家インタビューを通じた時代考証等にも触れられており、翻訳家ってそこまでするのか…!と驚嘆することしきり。

 

「翻訳」してみたいあなたに

「翻訳」してみたいあなたに

「翻訳とは原文の魂を伝えることだ!」というのを学んだのはこちらの本。語り口が柔らか且つ、上に挙げた斜陽の翻訳例や、翻訳が第二次世界大戦に及ぼした影響なども取り上げられており、翻訳コラム的な文章が楽しい。そしてやはり単語一つを翻訳するにも百科事典で正確な日本語をあたるなど、翻訳家が裏で行っている努力エピソードが多々見られ、ますます頭が下がる思いです…

 

翻訳教室―はじめの一歩 (ちくまプリマー新書)

翻訳教室―はじめの一歩 (ちくまプリマー新書)

著者が世田谷の小学校で行った翻訳教室の書籍版。小学生に翻訳は難しいのでは?と思いながら読んだのですが、果敢に辞書を引きながら、そんな発想が…!という斬新なイマジネーションを繰り広げる生徒たちの姿を見ると、翻訳って自分が思うよりずっと自由なんだなと改めて気付かされます。「翻訳とは、想像力の枠から出ようとすること」という著者の翻訳に対する考え方も好き。

 

おまけ

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

 

感動するほど読みやすい。翻訳ものの本をこれまで何冊読んだかわからないけれど、翻訳であることが気にならないだけに留まらず、書き抜きたい文が沢山あるのはこの本。物語自体も面白いんだけど、ここまでくると翻訳者が共著者になっているというか、日本語が美しいことの功績ってとても大きいなと思う。

 

***

以下、私的な余談。

◆考えてみれば、日本語をこねくり回すのが大好きだけれど別に何か書いても書いても尽きない題材があるわけでもなければ物語の筋が思い浮かぶわけでもない、という自分のような人間にとって翻訳とは素晴らしい領域なのでは!?と気付いた。というわけで早速フェロー・アカデミーの出版翻訳無料体験講座に行ってきました。

◆そこで先生に「上手い翻訳をできるようになるには、誤訳を避けるため文法の勉強等をするのは勿論として、何をするのが良いか?」と聞いてみたところ、「翻訳は結局言葉で、言葉ってリズムがあるもの。ピアノを上手に弾きたかったら何も考えずに先生の教えの通りに弾くでしょ?それと同じで、誰か好きな翻訳家を見つけて、原書を買ってきてその翻訳家と全く一言一句同じ訳文になるように訳す練習をしたら絶対に上手くなるよ」とのことでした。その発想はなかった。

◆それを聞いた私はなるほどと思い返してみて月と六ペンスだ!と閃き、やってみたは良いが、冒頭からして上記の通り文の順番から違ったので、これ全く同じに訳す難易度高すぎない…?と若干心が折れている。訳す側の立場になってみると、やはりこれは訳しすぎではないかと思う気持ちもないではないが、でも少しずつやってみます。

◆なんにしても面白そうだと思うので、実際にもうちょっと勉強してみて、それでもやっぱり面白かったら翻訳を仕事にする道も考えてみようと思う。憧れるのは出版翻訳だが、出版不況の中研究者でもないのに出版翻訳一本は流石に厳しいだろうから実務翻訳も視野に入れて、あとは最初は会社勤めを続けながら副業の形で始めるのが現実的なのかしら、、たぶん。

◆芸事に関するものは何でもそうだと思うのだが、どんな人生経験をしてもそれが活きる、というのはなんだか、とても、良い。翻訳の場合、これまで読んだ本、勉強してきた内容、留学経験、仕事で使った英語、仕事で叩き込まれた日本語表現、仕事そのもの、そうしたものが全部ひとつの線になって繋がるんだろうな。Steve Jobsの言うところのconnecting the dotsってこういうことなんだろうか。そうだとしたら嬉しい。